ギターのお話の第1回は日本を代表する製作家今井勇一さんとスタッフの対談です。
海外、日本共に人気が高く予約がいっぱいで今やなかなか店頭では目にすることができない
今井ギター・・・
ギリシャのギターフェスティバルからお帰りになったばかりの今井さんにお話を伺いました。
ワインなど飲みながら気楽に楽しいお話を伺うことができました。とてもフランクにお話頂いたので
全てをお聞かせする事はできませんが・・・
文中いくつか注釈をつけてありますのでそちらもご覧下さい。

 

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酒井 まずギリシャからお帰りなさいうことで

今井 いや、もう、毎日こう遊びほうけてたというか。特に、リヒテンシュタインの方は、割とあの、名目もマスターコースだから、日本語で言えば講習会だから朝、大体レッスンが、例えばヴァイカースハイム(注1)だとかああいう所と同じように、えーっと、9時半から10時頃から4時頃まであるんだけど、レッスンに熱が入ったりすると、5時頃までになってるのもあったけど、あの、ギリシャの方はマスターコースじゃなくてフェスティバルだから、もともと一応レッスンは午前中に1〜2時間あるんだけど、お昼の食事が2時頃で、それまでに全部終わっちゃって、で、その後はもう、暑くて空調のないような田舎のほうだから、結局、明るいうちはコンサートができなくて、日が遅くまであるから、9時半ごろにコンサートが始まるけど、それまでなんにもやる事がないから(笑)、まあ、僕の場合だと、ギター見たいって人などがホテルに来たりとか。

酒井  リヒテンシュタインで?

今井  いや、それはもう、ギリシャで。ホテルの近くがすぐ、エーゲ海だから、泳いだり、昼寝したり、ギター見たいって人がいると、部屋に戻ってギター見せて、また泳ぎに行ったりとか。

酒井  そのフェスティバルっていうのは、コチョリス(注2)ですか?主催は?

今井  ギリシャの場合には、もう完全にコチョリスって人が主催だし、オーガナイザーでもあるし、要するに、ほとんど一人で中心になってやってるし、実際、なんとなく、印象としては、ギリシャはもうコチョリスって人が、ギリシャのギター界の頂点にいるというような印象があるぐらい、実力もあるし、ある意味で、政治力もあるし、ギター界では経済力もあると思うし、そういうような人だから。だから、逆に言うと良くも悪くも、特にそういうフェスティバルにいたせいもあるけども、何となくみんながコチョリス色に染まっているというか(笑)。例えばフランスだとかドイツのようなとか、日本のような、いろんなスタイルの人がいるってのは見えにくいけど、まあ、フェスティバルだから、コチョリスとは違うタイプの人や、嫌いな人は来なかったろうから。

酒井  コンクールなんかはあったんですか?

今井  コンクールはいろんなのを見てると面白いけども、やっぱりコンクールってのは、みんなこう、一般的には参加する人たちはもちろん、もうある程度コンクールを経験してる人たちっていうのは、1位を取りたくて、上位に入りたくてコンクールに来る人もいるし、まあ、本当の初心者は、参加して、そのために一生懸命やる事だけでも十分だって人もいるけども、で、ギリシャの場合は、リヒテンシュタインも、コンクールがあったけど、ギリシャは、15歳以下のコンクールと、それから一般のコンクールとあるんだけど、日本とだいぶ雰囲気が違うのは、演奏の、プレイヤーのレベルはやっぱりヨーロッパ人の他の人たちも参加してるから、かなりいいレベルだけれども、やっぱりあの、たぶん僕の印象ではコチョリスの影響じゃないかなと思うけれども、ギターの指が早く動くってのいうがわりと高い評価を受けるのと、もう一つ、日本と決定的に違うのはやっぱりこう、音楽を正確にやる事より圧倒的にこう、音楽を音楽らしく歌い上げるっていう事に非常に大きな比重をおくから、その辺で日本とは審査が違いますね。それだけ音楽の趣味の違いがあるんだよね。

酒井  なるほど。

今井  それはやっぱり作る楽器に対しても、そういう違いを要求される。

酒井  楽器に?

今井  だから例えばこう、楽器をチェックする時に、たとえばギリシャって、ギター作りが3人ぐらい有名な人がいて、他にはほとんどいないらしいんだけども、まだこう日本やドイツやフランスのや、スペインのような、一番いいのでもまだそこまでのレベルに達してないから、初めて見る若い人たちに見せると、とりあえず大きい音が出るってだけで喜んでくれる。でも、やっぱり厳密にチェックすることになった時に、その、要求する所が違うのがわかる。 もちろん日本でも今、若い人たちはそうなったけど、とにかくこう、音色の幅とか、音の、どうやったらデリケートな音が出るだろうかとか、もちろん音量があるとか遠達性ってのはもう当然なきゃいけないという事だけども、そういう所のチェックはもう、当然あるべきだし程々にしてという事で、逆に言うと、そういうものがない人は「どうもありがとう」で、そこで終わっちゃうわけなんだけど、それがあると、じゃあこの楽器は実際僕が使ってみたらどうだろうかっていう事でチェックし始めてくれた時に、ちょうど要求されるものが、例えば音色の幅とか、そういったものを非常に強く要求されるけど、やっぱり、楽器に要求するものって、その人が弾いている音楽と一致するものだから。

酒井 ギリシャのそういう情報っていうのは、ほとんど日本には入ってないですよね。

今井  うん、ていうか、たとえば、コスタスって人自体も、ヨーロッパで言うとたとえば、今回、(あ、写真、あったかな?)、アルバロ・ピエールのコンサートも聞いたけど、アルバロ・ピエルリ(注3)とコチョリスっていう人たちは、たとえば、デビット・ラッセルやバルエコと、ほとんど印象としては同格に評価されているし、もちろんこう、人によっては彼たちのほうがラッセルやバルエコよりいいって人もいるぐらいの人たちなんだけど、日本では残念ながら、ネームバリューが非常に小さいという。まあそういう点では、エリオットなどもそういうレベルのプレイヤーだけど。

酒井  そうですね。フィスクに続いて、コチョリスとか、ピエルリとかね。
と、まあ、イントロが、非常に立派な長いイントロになりましたけど、今回この、ホームページ開設にあたって第一弾の特集、今井勇一さんという事でですね、企画を組ませていただいたんですけど、こういう、興味深いイントロでず〜っと話をしたいなっていうのもあるんですけど

今井  まあ、それは後でという事で(笑)。

酒井  まずは、非常にオーソドックスな話なんですけど、いきなり話がまず現在の話から、今井さんがギターを作り始めた最初の原点っていうようなことから・・・

今井  作り始めたというより、もともとこう、ギターに接したという所が、ちょうど・・・小学校5、6年の頃だから、11歳とかそのくらいだけども、もともとそれも、ギターを習いたいってんじゃなくて、妹がピアノをやっていたから、要するに僕も楽器をやりたくなったのね。何でもいいから。で、今だったら、たとえばピアノでもフルートでも、あらゆる楽器が、習おうと思ったらチャンスがあるけど、当時はなかなかチャンスがなくて、ピアノはもちろん、教室がけっこうあちこちにあったけど、他にほとんどこう音楽教室らしいものって、まだヤマハなどもなかったし、ほとんど音楽教室らしいものってなかったし。で、たまたま僕は小さい時同じアパートにフルートを吹いてる人がいて、で、フルートをやりたいなって言ったんだけども、今だとそうでもないんだけど、当時はフルートって言うと、ピアノ以上に非常に珍しい楽器だったから、教わろうと思ったら、たとえば当時でもそうだったんだけど、芸大の先生とか武蔵野の先生とか、そういう人たちしかいなかったから、当時でも非常に月謝が高かったんだよね。で、これは、小学校の男の子が、全然好きか嫌いかわからないのにフルートを買い与えて、そんな高いレッスン料払うは、もったいないって意識がどうも親にあったらしくて(笑)、で、たまたま、ピアノ教室に、小胎剛先生がまだ当時初めてついて、28だったんだけど、ギターを教えに来てて、で、ちょうど、あそこでギター教室やってるからじゃあギターならいいだろうってんで、まあ行ってみた。だから、ギターは特にこう・・・もしだから、同じような経済的条件でとか、そこにバイオリン教室があってバイオリンが安かったら、バイオリン習ってたかも知れないし、そうしたら僕、間違い無くバイオリン作りになってたと思うけども、で、結局そうやってギターを弾くようになって、それがまあ、ギターを作るって仕事の最初のルーツになるんだけど。

酒井  どうも、ギターを始めるきっかけとかそういうのって、ギターが安かったからとか、なんか軽い動機が多いですよね(笑)。

今井  で、特に僕達の世代は完全に、本当にギターブームの時だったから、安いからギターってよりも、楽器って言ったらギターって、それもエレキギターとかフォークギターのない時代だから。まあ、女の子はピアノが多かったけど、僕達だったら楽器を習うっていう事じゃなければ特にギターは多かったと思うけど。

酒井  それは、昭和30年代になりますか?

今井  え〜っと・・・うん、30年代だね。35、6年だと思う。

酒井  そうですね。やっぱり、その頃は、ギターは、音楽の中心って時代ですね。

今井  で、結局、小学校の5、6年で、その後中学・高校とギターやってたわけだけども、結局、高校卒業してから・・・僕は都立高校だったからもう、ほとんど、あの頃、男の人は250人ぐらい生徒がいて、文京高校だけど、就職する人は2人ぐらいしかいなくて、その1人が僕だったんだけど、もともとそういう高校だったから、大学に行くつもりだったんだよね。ところが、大学行くつもりだったんだけど勉強は大嫌いだし、そうなると、大学に行くにしても、どんな大学や学部を選んだらいいか見当もつかないから、これじゃしょうがないなと思って、どうせ好きな学科がないんだったら、じゃあ先に職業を決めて、それで、それに一番合った大学を選べばいいやっていう事で、職業を先に決めようと思ったわけだけど、それで、結局ギターから離れたくなかったから、ギター作りかギター弾きだけども、その時、身近な所になかったから、楽器を売るって商売は、選択肢になかったんだよね。(笑)

酒井  こういう、ギター専門店っていうのはなかったわけですね。

今井  当時はまだね、河野ギターや中出さんなども、ほとんど直接売ってた時代だと思う。かろうじてたとえばヤマハだとか山野楽器店だとか十字屋さんなどが、中出さんなどから買って売ってたぐらいじゃないかな。

酒井  まさに、ギター界の歴史の話になってきましたね。

今井  だから、そういう事で弾く方か作る方かどっちかで、同じ頃に一緒にギターを弾いてて、僕よりも同じ時間どころかちっとも僕より練習してなくて僕よりうまくなる奴が何人かいたりとかね。そういう事で、これは絶対僕は、好きだけど、もしギター弾きになったらまず苦労するだろうなって思って、やっぱり得意な職業を選んだ方がいいだろうという事で。で、ものを作るのは好きだったから、それでそうなると、ギター作るしかないって事で、で、今みたいにドイツとかイタリアみたいに、バイオリン製作学校とか、ギターはないけどもまあそういう製作学校でもあれば、専門学校でも、あれば間違い無くそこに行ったと思うけど、そういうのが当時なかったから、で、中出さんの所に行ったんですね、その頃僕は中出さんの楽器を持ってたし、当時はまだ河野ギターより中出さんのさんの方が名前が出ていたと思うし、そのちょっと後で河野さんは賞を取ったんですよね。

酒井 海外の、フレドリッシュと競った時の話ですね。

今井  で、僕は中出さんのとこに行こうと思ったんだけど、結局阪蔵さんのところはもう弟子が20人位いていっぱいだった、で、もうウチは駄目だって言うんで、僕はまだその時は知らなかったんだけど、ちょうど長男輝明さんが独立して、そっちなら空いてるからって、で、そっちに行ったんだけども、ちょうどその頃は独立したてでまだ弟子が2人しかいなくて、その2人いたうちの1人がやめちゃった所で。だから、いやおうなしにすべての作業をやらされたから、僕にとってはその方が良かったと思うけど。

酒井  ネックだけ作るとか、分業ではなくて・・・

今井  うん、そういう事じゃなくて、いやおうなしに全部。

酒井  でも分業で専門に1つのパーツだけ作ってたら、ちょっと全部作るのは難しいですね。

今井  ただ後で考えると、たとえどんな形であれ、ある程度の能力があれば、どんな教え方をされても、全部教わらなくても、木工の基礎的なものさえ教われば、ある部分やった事なくても全く問題ないと思うけれども。ただ僕にとって運が良かったのは、輝明さん機械の嫌いな人だったから、機械があるのに機械使わせない(笑)。輝明さんは、機械使うのがあんまり得意でなかったし、僕達が、いろいろ機械をうまく利用する道具を作るんだけど、何個か壊された覚えがあるの、使い方悪くて(笑)。また師匠壊したな、なんて。

酒井  だいたいその、下積みというか、修行時代っていうのは、何年ぐらいですか?

今井  今では信じられない言葉だけど、当時は弟子入りとか年期奉公とかそういう言葉のあった時代で、中出さんのところは、5年って事だったんだけど、3年ぐらい経った時に、もういいかなって感じて飛び出しちゃったのね。本来は、5年いなきゃいけないわけだけど、だからまあ、学校で言えば中退のようなものですね。

酒井  それは、自主的に年期明けって事で、飛び出して?

今井  ただ僕にとっては、それもプラスだったと思う。ていうのは、何でも自分でやらなきゃなんなかったから何でも自分でやるはめになったし。

酒井  独立されて、第1号器っていうのは、何年頃ですか?、今井さんのブランドで?

今井  その後、1年ぐらい後に作っているから、たぶん、22才の後半ぐらいに作っていると思うけど。あ、23歳ぐらいになってからかな?

酒井  そうしますと・・・1970年・・・

今井  22歳だから・・71年か72年、そんなもんかな。

酒井  それは、もうその第1号器っていうのは、今どうなってるか分かりますか?

今井  それは、今、うちにある。1本目と2本目があって、その後はほとんど売っちゃってる。

酒井  そうですか。1本目は・・・まだ僕も見せて頂いてないですよね?

今井  うん、まだ誰にも見せてない。

酒井  それは機会があったらぜひ1度(笑)。

今井  あと、15年ぐらい前のを一本、うちで使うために取っといてあるけど、あとは全部売っちゃってる。

酒井  これもまあ余談ですけども、確か僕が今井さんの楽器を初めて見たのは、1975年だと思いますね。多分結婚された頃じゃないかと。で、僕の友人が、新婚第1作目というのを持ってましてね、非常に僕にとっては思い出深いものなんですが。

今井  多分25才ぐらいの時だから、22年ぐらい前だと思うけど。

酒井  あの、共鳴板の真っ白な、赤いモザイクの。

今井  そうそう。

酒井  当時の日本の楽器としては日本の楽器らしからぬ音をしていたという記憶があるんですが。

今井  いや、あの時のは結局、赤と黒のモザイクなんだけど、あれは何をイメージしたかって言うと、ちょうどね、あの時に、今でもやっぱりスペインの一番いい楽器の一つだと思うけども、特に今よりもあの頃のほうが良かったんだと思うけど、アルカンヘルのいいのがあったのね。で、そのアルカンヘルが、赤と黒のいいモザイクを使ってて、なんかそれに近いイメージのを作りたいなと思ってやったんだけど、ただ、あれはやっぱり、ある何人かの人には気に入られたけども、やっぱり、ああいう強烈な模様ってのは、いいっていう人と嫌いっていう人とはっきり分かれるから、そうするとやっぱり、一般に売るのはちょっと難しくて、あれは、その後使わなくなっちゃたけど。

酒井  そうですよね。その後、すぐ変わりましたよね。音も非常になんかこう、僕は印象が深くて。

今井  あの頃はまだ、セラックを使ってなかった楽器で。

酒井  そうか・・・あの、色も、本当に、松の真っ白な色だったですよね。

今井  あの頃は、表板はウレタンを塗ってたと思うし、それで、全く着色してなかったから。

酒井  僕もちょうどその頃この業界に入って、今井さんの楽器を、今度は売らせていただく立場になったのですが、でもこの時代は、80年代ですが、今井さんはドイツで売れてらしたので、日本では本数が少なかった様な記憶があるのですが・・・

今井  そうだと思います。日本では割と本数が少なかった時代ですね。ドイツの方でわりと売れてたせいもあって、僕も、日本でたくさん売れないのがそう気にならなかったりとか、そんな事で、だからお互いに関係は悪くなかったんだけど、商売はそんなに多くないという時期がありましたね。

酒井  で、その辺の、ドイツで売れ始めたっていうか、僕達にとっては、一番センセーショナルだったのは、突然、評判逆輸入っていうんですか? トーマス・ミュラー・ペリング(注4)、という、ドイツの素晴らしいギタリストが、日本に初来日した時に、だいたあの、日本人・・・っていうか、我々なんか特にそうですけども、ギター何を使ってるんだろう、とか、非常に関心が・・・

今井  いや、それはもう、世界中の人がそういう・・・いいコンサートがあると必ずその後で、特にギターに関係した人たちは、聞きにくる。プレイヤーは面白くないらしいんだけど・・・俺がちゃんといい音出したのにって(笑)。

酒井  それであの、その時に、なんと、持ってきたのが今井さんの楽器だったという。その時の驚きというか、ああいう事今までなかったですよね。それで確か僕はその時、表面板が杉の楽器だったと思うんですけど、ね、で、そのトーマスを呼んだのが、アーティストクラブの小山さん・・今の「パセオ」の社長ですけどね、

今井  今でこそ大きな会社、大きな雑誌になったけど・・・

酒井  あの頃は大変でした。

今井  まだ「パセオ」がなかった時代

酒井  ・・・ですね。で、いろんな人を集めるために、彼を呼んで、

今井  いや裏話だけど、バリオホールで50人しか入らなかったという・・・

酒井  ありましたね。

今井  で、トーマスが気のいい男で、こんなギャラもらっちゃ悪いから、小山さんに返したほうがいいだろうかとかなんとか言うから、いやいい、いい、もらっとけって。

酒井  そう、とてもいい人でしたね、トーマスは。で、そのトーマスが持ってきたという事で、で、楽器も見せていただいてね、びっくりしたんですね。あまりにも、変な意味じゃなく、当時の日本のギターの規格を、ちょっと飛び越えていたような気がして。当時まだ日本には知られていなかったのですが、マヌエル・バルエコがLP同時に3枚出したりして、そんなこと今までのギター界では例のないことだったので、バルエコっていうのはすごいぞ・・っていう評判になったんですよね。そこでバルエコが使っている楽器はなんだろうって話題になったんです。そこで、一生懸命探したのが、ロバートラックだったんですね。いろいろ探してラックを手にした時、今井さんの楽器と、非常に、何かこう共通するようなものを。

今井  うん、当時のラックはあったと思う。ラックってやっぱり、バルエコなどが弾いて、当時有名になり始めた楽器だけど、自分で弾いてもやっぱり似た種類の楽器だって感じた。特に米杉の楽器に対して。

酒井  それで、もう本当の逆輸入ですよね。評判逆輸入。あそこからはもう、ここ十年来のギター史を知っている人は、ご存知の通りの今井さんの評価なんですけども、その頃が、ちょっとさっきお話されてたんですけど、ドイツではその前から評判になっていたという。

今井  実際には、トーマスは日本に来たから、そういう事で日本では、一応、ドイツ人の中では僕の楽器を使ってくれたという事で、日本で、僕の名前をこう、広めるために貢献してくれたのはトーマスなんだけども、フランク・ブンガルテン(注5)って、CDなど聞いてもらった事があるけれども、彼のほうが最初に使ってくれて、だから、ドイツではやっぱり僕の楽器を最初に使ってくれた優秀なプレイヤーって言うと、トーマスじゃなくてフランクなんだけど。

酒井  それは、初めて僕は知りましたね。

今井  ええ、フランクの方が先に使って。

酒井  でも当時、その頃って言いますと、もう70年代から80年代入る頃だと思うんですけど、まだまだ日本の楽器製作者の人がですね、こう、海外に楽器を持っていって使ってもらうんだっていう、そういうような事ってのは、なかなかなかった時代じゃないですか?

今井  いや、それはもうすでに、まあ、今でも昔でも別格だろうけど、

酒井  河野さん

今井  河野さん(ハモって)はもう、とっくに名前が出ていたし。他にもチャレンジしている人もいたけれど、どこの国でも、何色ってこうはっきり分けられないけど、やっぱり国によっての違いもあるし、プレイヤーの違いはもっと大きいし、だからやっぱり、そういうのはある程度見てないと難しい。特にこう、今回も、たとえばアルバロ・ピエルリとか、他にも日本では知られてないけど優秀なプレイヤーに見てもらったりして、多分何人か非常に強い興味を持ってくれたから、わりと近い将来注文してくれるだろうけども、でも、そういう人たちと話してると、やっぱりこう、自分の中のできる範囲の中で、その人が要求している所に接点があるだろうかとかできるだろうかとか、そういう所をよく見極めて、もし接点があったりそういうレベルになったら、使ってくれるだろうけど、そういう所はだから、常に接点を作ってないとできないなと思うけど。

酒井  今井さんも80年代からどんどん海外に行かれるようになって、こう、イメージとしては、年の何ヶ月かはヨーロッパにいらしてね、えーっと、向こうで直接現役の演奏家とコンタクトを取って、そこから楽器を作るという発想をかなりされてるというか・・・

今井  コンタクトを取るというよりも、もちろんこう、どんな所でもどんな形でも、例えば、基本的にはヨーロッパの伝統的なというか、もっと言えばギターはスペインの民族楽器だったんだけども、今は他のピアノだとかと同じように、民族楽器じゃなくて、完全に一般的な、普通の楽器になったと思うけど、やっぱりこう、どこの国でも少しづつ違いがあるし、特にそれでギターの場合だと、やっぱりスペインとかドイツとかフランスとか、そういう所の一つの伝統的な音楽の、間違いなくヨーロッパの楽器だから、やっぱりヨーロッパの音楽の世界でギターがどんな風に使われているかとか、そういう事をきちんと見ていたいなと思うし。でも、今は日本もずいぶん変わって来たと思うけど、たとえば、鎌田さんや福田さんや鈴木さんとか、ああいう人たちが代表的な人たちだけど、もう、ヨーロッパと日本の差を感じさせないような、プレイヤーとしてのレベルも感覚も持ってるし、そういう人たちとも僕が直接接する事はできるから、そういう点では日本にいても同じだけども、でももちろんたくさんの人と接せられるという点で、ヨーロッパに行って色々な事を感じるのは、非常にこう、いろんな大きな事がいっぺんに感じられるし面白いなと思ってるけど。

酒井  もう、ヨーロッパにずっと、本拠地っていうかで、20年ぐらいになるんですよね。

今井  ただ本拠地っていうよりも、ギター自体がたとえば、20年ぐらい前までって言うと、プレイヤーでもそうだし楽器ももちろんそうだったし、演奏会のプログラム見ても、総ての面でスペインが間違いなく最高だったけども、今はそういう点が総ての面で、たとえば楽器を見てもプログラムでもプレイヤーでも、世界中に散らばっているという感じだから、そういう点では、あんまりどこの国が、っていうような事はなくなりつつある気がするけど、ギターが非常にインターナショナルになってきたと思うから。

酒井  特に、僕はドイツはそう思うんですけども、昔、楽器の話では、ギターといえばハウザー、ワイスガーバー、この2つですかね、主に・・・

今井  うん、昔だったら、ギタリストで言えばベーレント(注6)しかいなかったような気がしてたという(笑)。今のドイツ人の若い人に聞くと、ベーレントって知らないなんて。

酒井  そうですよね。それはどうでしょう、ここの所の・・・

今井  もちろんあの、いい楽器の一つだと思うけど、でもやっぱり、本数も少なかったからもうワイスガーバーってのはほとんどドイツ人の今のプレイヤーのなかでは、ほとんど忘れられてるというか、実際にこう、ステージでワイスガーバーの音を聞くチャンスはもうほとんどないし。

酒井  そうですね、それと、プレイヤーもですから、こういう話の最新事情という所をいろいろお話を・・・

今井  そういう点では、ドイツでは今、ダマン(注7)などは日本ではやっと知られてきたと思うけど、他にも何人かの優秀な楽器作りはいるし。

酒井  その当時からそういう、当然ドイツですか、土台はあったんでしょうけども、10年以上前では、ほとんど日本には、僕達のような専門の仕事をしてても、そんなに聞こえてこなかったですよね。

今井  入ってこなかったですよね。

酒井  それが、ここに来てプレイヤーの人もそうですけども、製作者もずいぶん、若い人が。

今井  そういう点ではドイツに限らず、ドイツとかフランス、もちろんスペインもそうだしイタリアとかイギリスっていうのは、ギターに限らずクラシックの楽器っていうのが、弾くうえでも作るうえでも伝統的な仕事だから、その、ブームに関わらず、常に若い人たちがそういう世界に入ってくるけれども、日本の場合にはそういう点では特に、プレイヤーはけっこうずっと各世代にいるけど、楽器作りはちょっと途切れちゃったような気はしますね。

酒井  製作もプレイも、この話もなかなか難しい話ですけど、やはり一番大御所であるスペインが、ずっと今までリーダー的な存在の・・・って多かったですけど、ちょっと若手の製作者っていうのがいなくなってるかなあって。

今井  いや、数としてはものすごくたくさんいます。数としては、フランクフルトのメセナの時にいろんなヨーロッパの楽器作りと会うと、例えばドイツ人、イギリス人、フランス人、スペイン人などの楽器作りと会うと、どこでもみんな、キャリアのあるベテランの人たちが、うちの国は楽器作りが多くて困るってみんな言ってるけど、その中でも桁違いにに多いのがスペイン。コントレラスと話した時に、おおざっぱに言って100人なんて事はないだろうって言ってたから、要するに、150人はいるだろうっていう話かも知れないけど。

酒井  そうですか・・・

今井  やっぱり圧倒的にスペインは多いけど、ピンからキリまでね。

酒井  やっぱり、そういう中で今井さんが向こうのプレイヤーに、楽器を使ってもらおうというコンセプトもあると思います。で、たとえばそういう中で、今回特集してますリミテッドモデルっていうものがあるとおもうんですけれど、その、リミテッドモデルのできた経緯っていうんですか、従来このモデルっていうのは一般的にお店にも並んでないと思うんですけども。

今井  ええ、あまり並ぶ事もないんだけども。結局僕の場合には、70万っていう定価の楽器で、もう十分プレイヤーがステージで使えるだけのレベルの楽器にしたいという考えなんだけども、やっぱり、楽器を作るうえで、材料の良し悪しと、それから設計の良し悪しと、それからその設計通りに作れるかという技術と、その3つが一番重要だと思うんだけども。で、その中で、僕達が材料を買う時に、同じように買ってもピンからキリまであるわけだけど、やっぱり特別にいい古い材料ってのがあって、そういうので本当にいいのを作った時に、ちょっと値段は高いけども、これが僕の今できる最高の楽器だというのを作りたいという事でつけた値段だし、モデルナンバーなんだけども。そういう点では、70万のと基本的にはほとんど同じだけど、材料でも、音に関する部分だけじゃなくて、見かけも含めて、そういういい材料を選んだという事で、多少高い値段をもらってるわけだけども、基本的には70万でも、ほとんど同等の楽器は作れると思います。ただ、やっぱり50万の楽器に関しては、それはもう、きちんと作ってはいるけど、材料の点で少し差があるから、それは、同等の性能は出ないと思うけど。

酒井  ただ、その材料のお話ですけども、やはり、なかなか一般的なユーザーには伝わりにくいと思うんですけども、その、材料の入手する困難さですとか、本当に・・・こう、それを、貯金しておくようなものですよね、買ってすぐに使えないですとか。

今井  もちろんです。

酒井  やはりそういう、また、最近、材料・・資源の不足ですとか、そういうものもあると思うんで、今いい材料をっていうのは、どうなんでしょう?

今井  たぶん、今、リミテッドモデルで使ってる材料は、今欲しいと思ってお金を用意しても、ほとんど入らないと思います。これはたぶん、僕に限らず、たとえば他の、昔からやってる楽器作りでもそうだろうけど、今使ってるいい材料ってのは、もう今はほとんど入らないようなレベルの材料を使ってるし。

 

酒井  ところで、今リミテッドの話しで、次、もう一つ、今年、ニューバージョンっていうか、全く新しい、リミテッドとは違った発想で出されたモデルがありますよね。今井ステューデントモデルと・・・

今井  ステューデントモデルっていうのも言い方がおかしいと言うんで、だからどしようかってネーミングを考えて、まあ、どうでもいいような名前になっちゃったんだけど、まあ要するにあの、僕のリミテッドモデルなどに似たような音で、安い値段でできれば、という発想で作ったわけだけども。

酒井  どうしても、いい音のものは欲しいけれども、という事ですね。

今井  このリミテッドモデルを作ったから、メーカーさんにこれと同じ楽器を作ってくれれば同じ音が出るじゃないか、だから同じ設計、もちろん設計は同じ、できるだけ僕の楽器と同じようにしてくれって言っても、これは無理な話なんだよね。これはもう、アンサンブルと同じ。やっぱり相手には相手のスタイルがあって、僕に僕のスタイルがあるじゃない。だから、非常に単純な例なんだけど、板の厚さでもね、同じ設計で同じ厚さにしても、メーカーが違うと音が違っちゃうんだよね。それと逆にじゃあ、もし僕がこういう音を、優秀なギターメーカーとの関係、そのメーカーが半分作るって事になって、その半分メーカーの手が入るって事で、できるだけ僕が考えている音に近付けようと思ったら、最初の1回はメーカーに、ある1つのパターンを渡して、こういうパターンだとどうなるんだろうかって所をよく見ておいて、その変化の具合を見ているわけね。そうすると、僕の楽器とできるだけ同じにしてもらいたかったら、もしかしたら僕の厚さとは違う音のほうが同じになる可能性もあるわけなのね。だから、相手のクセを考えて、相手の得意なところ不得意なところとか、癖を考えないとだめだから、だからやっぱりその中でこう、2つのメーカーが一体になって、一番いいものを作ろうと思うと、自分の設計を渡してこの通りにやってくれって言っても、材料も違うし、スタイルも違うし、だからそれは無理だと思って。だから僕はそのメーカーでたのむとき絶対に僕と同じような設計をできるだけこう正確にやってくれっていうんじやなくて、こうできるだけ自然にメーカーの人たちがこうやるといい音がでるんだけどという、そのごく普通にやっている仕事のスタイルをできるだけ制約しないような形で出来たらいいなと思っているけど、ちようどそれはアンサンブルのようなものだと思っているけど

酒井  今のお話は非常に新鮮というか、大体そういうスチューデントというか、そういうモデルを作る時に何かこう、上からガチッと押さえ付けてっていうか、型にはめてしまうというような話が多いんですけども

今井  もちろんそれで出来たとしたらそれでいいんですけれども、それはもう絶対無理な話で・・・うん、だから両方の良さがうまく出ればいいと思うし、

酒井  あの、こういうクラスのものでも今後ですね、ぜひ、継続してやって頂けたらいいな・・・と思うんですけど

今井  ええ、多分というか、間違いなくきちんと評価を得られる限り継続すると思うし。評価を得られるようなレベルにきちんとしておかないとまずいと思うし、

酒井  それは今後は数はいかがでしょう

今井  うん。やっぱりどちらにしてもそんなに多くなる事はないと思います。もちろんそれは、僕の材料を供給するとか、表板は全部僕がやっているとか、そういうことからして、間違いなくそんなに沢山はできっこないから・・・

酒井  スチューデントモデルといえど、リミテッドなんですね(笑)これでこの両方のモデルが、形が出来て・・・

今井  うん、まあもちろん僕が個人的にはこう、例えば自分で全部作るモデルでも85万、70万、50万という3つがあるわけだけれども、一番高い値段のものだけが売れていればそれは一番理想的なわけだけれど・・(笑)それはどんな楽器作りでもそういうことはないから・・・うん

酒井  ただこういうふうにこれからまた楽器を作りながらの将来的な展望というのは、僕もちょっと今井さんからも伺っているのですけれども、日本でもまた海外、ドイツでも楽器学ですか、大学で講座をお持ちでということで・・・

今井  ええドイツのは講座ではなくて講習会ですけれど

酒井  講習会でレクチャーのような・・・そういうこともまたひとついまあの当時のようにお弟子さんが入ってというそういう時代ではないですけれど、そういうところでまた

今井  うん、ただあれはやっぱり2つか3つ理由があるんだけれど、ああいうのは最初あんまりやりたくなかったんだけれど、たまたま大阪音楽大学のギター科の藤井さんという主任の講師を知っていたのと河野さんからの紹介だという理由でやったんだけれと、ただ僕があそこで今この9月で3回目だけれども、僕がそこで一番興味を持っていられるのは、自分が教えてギャラをいただくということとかそういうことよりも普段やはりこういう所で接していると酒井さんだつてもう30代、40に近い30代かもしれないけれど・・・

酒井  あ、ほく40代です。

今井  40代ですか、でも今例えば日本では村治奏一さんとか木村大さんとか17、8の人たちがかなりのレベルになっているし、やっぱり20代の前半とか10代の後半位の人がギターでどんな事を考えているかとか、もちろんそういう人たちの要求を聞いてそこに合わせるとかはできないし、もしかしたら場合によってはそういう合わせること自体意味がないかも知れないけれど、でもやっぱり常にギターというのは他の楽器と比べて非常に変わっている楽器だと思うのね・・それは例えば、バイオリンなどだとひどい言い方かも知れないけれど、300年前と大差ないというか、で、いまだにプレーヤーの大多数がその300年前の楽器を欲しがっている。ところがギターはトーレスを欲しい人はいても、トーレスだけでいという人はいないし、もう100年の単位で見ても、ものすごく変わっているし、だからその、要するに僕達は楽器作りだから、プレーヤーが今何を考えているかというのをいつも見ていたいから、それは日本にいるのもそうだし、ヨーロッパに行ってそれをヨーロッパの音楽をやっている人たちがいま一線でどういう風に感じているかっていうのと同じように、日本でも若い人達がいま何を要求しているかとか、何を感じているかという事をいつも知っておきたいという、そういうのをきちんと知っておかないとやっぱり自分の楽器作りというスタンスをしっかり決められないだろなと思うから。そういう興味もあって、それで、多分時間と労力だけ考えたら、あまり割りのいい仕事ではないかも知れないけど、でもやっぱりそれは楽しみとして、やらしてくれるっていう限り、続けたいなと思っているし、まあ、3回くらいやってみると、基本的な授業ってのは同じ部分もあるけど、僕がこう、新しく常に感じた事はまた、新しい情報として伝えてみたいと思うし。

酒井  先程今井さんが言われたように、バイオリンですとね、300年前から変わってない。でも、本当にギターっていうのは・・・

今井  ギターは、本当に変わっていると思う。それと、これから先の事を考えたら、今僕たちは、たとえばハカランダを一番最高級の楽器の材料として、大多数の楽器作りが使っているけども、もう、今、御存じのように、ワシントン条約でコントロールされたから、僕達の次の世代の楽器作りはほとんどいいハカランダを手に入れられなくなると思うのね。そうなった時にまた、だから楽器が悪くなるってんじゃなくて、おそらくギターは自然に変わっていくと思うし、もしかしたら、オベーションのようなああいう木以外の材料がもっとこうきちんと研究されて、そういうものももっと使われるようになるかも知れないし。

酒井  本当に今までですと、やはり材料はハカランダで、表はいい松で、という話があったんですけど、今後は、なかなか・・・非常にネガティヴな話ですとね、もう、材料がないから駄目だとか。

今井  いや、そんな事はないと思う。逆に考えると、100年前のトーレスはハカランダのものもあるけど、カエデのもあるし。また、カエデの楽器なども出てくるかも知れないし、もちろん今でもあるけど、だから、そんなにこう、心配する事はないと思うけども。

酒井  やっぱりその、ギターも、もうすぐ21世紀ですけども、いろんな話を聞きますと、材料がないから駄目だとか、非常に悲観的な話も多いんですけども、今日、お話させていただいて・・・

今井  材料屋さんとか楽器屋さんとか、いい楽器がなくなるとか、材料がなくなるとか言う割には、また入るから大丈夫なんだけどさ(笑)。

酒井  今井さんのお話を伺ってますと、製作者の、非常にポジティヴっていうか、一瞬、話としては、もっとこう、精神性だとかですね、逆に、いやそういうものはっていう話を聞かれる事が多いんですけど。

今井  僕達は、楽器のなかで非常にこう、もちろん、精神的なものを感じていただければありがたいと思うけど、やっぱりモノ作りとしては常に冷静でなければいけないと思うんで、あえてそういう態度を取ってるってフシもあるかも知れない。で、非常に具体的な話なんだけど、楽器の管理のしかたの中で、楽器は生きているから伸び縮みするって言うでしょう? だけど、もし冷静な言い方をしたら、死んでるから始末が悪いんだよって言いたいんだよね。なぜかって言うと、木っていうのは生きてる時は根っこがあって水分を吸うから、倒されても根っこがあれば元に戻るし、ヒマワリなんか、お日さまと反対の方に植木鉢を向ければ、ちゃんと日の方に向くでしょう? 自分そのものが、生きてて自然にこう、いい条件のもとに向く力があるんだけど、一度切っちゃった木っていうのは、もう生命力がないから、自分でコントロールする力がないから、それで伸び縮みした時に人間がケアしてあげなきゃいけないっていう事なんだよね。だから、非常に言葉としては悪いけど、死んでるから始末が悪い、だからきちんとケアしなさいっていう言い方になるんだけど。だから、もちろん、精神的な事を含める言い方は理解はできるけど、作ってる人としては、そういう風に言ってもらったらニヤニヤとしてはいられるんだけど、でも作り手としては常に、いろんな現実的な事をきちんと考えて、データーをきちんと見て、それを全部クリアするように努力しなきゃいけないっていう考えだけど。

酒井  今日こうやってお話うかがって思ったのは、やっぱり前に進んでいる。まあ、製作でもプレイヤーでもそうですけど、やはり、ついつい話をまとめる時に精神的にまとめたく・・・クラシックというかこういうアコースティックを扱っていると、こう、アナログ寄りな話になるんですよね。どうしてもそういう所に話を求めてしまうんですけども・・・今度のインターネットのメインなんですよ。でも、そういう所じゃない所の、とっても意外でありながら、希望が持てる、とっても楽しい、これからすごく未来は明るいぞ、という・・・

今井  やっぱりこう、いつも思うのは、どんなギターを作りたいかって言われると、僕自身がリスナーとしてギターを聞いている時にやっぱりこう非常にドラマチックな音楽を聴きたいと思うし、そうするとそのそういうものにできるだけ音楽を作るのに無理な力をかけないでというか、抵抗なくそういう音が引きだせる楽器でありたいと思うし、それはそう一つの音楽を作る人達、プレーヤーでも楽器作りでもひとつの映画で言えば監督のような仕事だと思うけど、そういう人達はドラマティックなものを作るために感じさせるために、ものすごい計算をしている訳じゃない・・例えば、もし喜劇を見たとすると、一般のお客さんは喜劇だと思って喜んで帰るんだけれど、よく考えてみると90パーセント以上が悲しい部分だったり、悲劇を見ると90パーセントが明るい部分だったり、でそういことをトータルで忘れさせてトータルでドラマを感じさせるんだけれども、やっぱり楽器作りとか演奏家というのはそういうのを全部きれいに、こう、感覚も含めて計算してやるわけで、だからやっぱり否応無しに感覚的にではなくて、計算をするような性格になってしまうんだけれど

酒井  その計算というのが、こう、とってもいい意味での計算なんですよね、深いですよね。ただ、どうしても日本人ってそういうことを悪い方にとりますよね、こういうアコースティックなものを作ると

今井  でもそれおもしろかったのは、韓国のリヨンスンさんというひとが言っていたけれど、、韓国人は日本人以上には精神的なものを深く重く考える人が多いんだよね。だから楽器の注文を受けた時に、とにかく魂を入れてくれっていうのを非常に強くいうんだれど、そこにたまたまドイツ人がいたのだけれど、ドイツ人は白けはじめているのね。で。僕はどちらかというと、ドイツ人の白けている方が分かるんだけれど、韓国人のいうことも良く分かるから、ちょうどその中間位かなと思ったけれど、で、もちろん、日本ではいろんな楽器に限らず広告で魂を込めたというのが一つの売りものになるじゃない、だけどあれはヨーロッパでは込めたか込めないかではなく、出来上がったものがいいか、悪いかという

酒井  どうしても精神性だと苦労して音を出さないと・・・っていうのがありますよね。

今井  そうそう(笑)。仕事を楽しいって言ったら、お前はって・・・全然話は変わるけど、小錦がさ、もう引退間際だけど、「僕は相撲を楽しんでいたい」って言ったら、あの時の理事長が、「相撲を楽しむとは何事だ」って・・・その辺が。アメリカ人的な、たとえば野茂が、野球を楽しんでいたいとか、ああいう感覚が理解できない人種なんだよね。

酒井  そうですよね。それと、小錦が言ったように、「fightだ」、つまりケンカだって言ったら、「ケンカではない」って。

今井  そうそう。あれは、神事であるからって。聞いた話だけど、ギターでもそういうのがあって、ある先生のお弟子さんから聞いたけど、「練習は苦しいものだ、ギターを楽しいと思うな」って・・とんでもないなって話を聞いたことがあるけど(笑)。

酒井  スポーツになりますと、「練習で泣いて試合で笑え」って、そんなの笑えないっていう(笑)。なんか今日は本当にこう、主旨としては、非常にそうした精神論的なものになるかと思えば、やはり、さすがに、本当に人生を楽しんで楽器を作られてる今井さんらしいお話になって良かったなあ、このままフェードアウト、と(笑)・・・このままどんどん話はふくらんで、ちょうどおなかもすいてきましたし。

今井  そろそろ別の場所に。

酒井  そうそう、ちょうどコンサートでは、いつもこういう時間で終わって、アンコールで、これから打ち上げだなっていう時間ですよね。

今井  ギリシャに行った時は、ちょうどコンサートが9時半から始まるので、だいたい、ヴァイカースハイム、あの辺が8時だったよね。

酒井  そうですよね。

今井  ただ、ヴァイカースハイムもそうだったけど、リヒテンシュタインの時はエアコンなかったんだけど、あそこは涼しかったんだ。ギリシャはエアコンがないじゃない、だから日が落ちてからなんだけどね、外で窓開けてるじゃない、すると、鳥が鳴くんだけど、あれ、ちょうどコンサートが8時だけど、8時半頃に鳴くんだよね。そろそろ来るな、と思うと、それもけたたましい声なのね。みんなあわててドアを閉めるという。でもやっぱりね、さすがにギリシャの時は、僕何人かはもう他でも聞いた人だったけどね、やっぱり、演奏を聞こうと思ったらベストのコンディションではないから、演奏はね、そうだな・・・どんな人でも、その人のベストのね、何割っていうか、そのプレイヤーが、ピンからキリまでのレベルで演奏するとしたら、どちらかと言うと下に近い方の状態になってる。ってのは、とにかくもう汗がひどくてね、っていうよりももう、聴衆もとにかく暑いから、もう聴衆もね、うちわでこうなってるし、もう汗だく。

酒井  やっぱり、ギリシャは、40度とかそういう・・・

今井  ただね、まだましなのは日本ほど湿気がないせいはあるけども、でもものすごい暑さでね。

酒井  いや、そういう話をしますといよいよ、ていう事で、最初のギリシャの話から、ギリシャに戻るということで。

今井  やっぱり印象的だったんだよ。初めて行ったせいもあるのと、あまりにも日本と違うのと。

酒井  ますます、ついにギリシャまで、今井ギターの名声が。

今井  コチョリスにはもう注文をもらってるから、たぶん使ってくれると思うけれども。日本ではまだあまり名前が出ていないけれど、ヨーロッパでは非常にネームバリューのある人だから。

酒井  本当にこれからが楽しみな今井さんのギターで。いろいろとお話を伺わせて頂きましたが、材料がないとかワシントン条約とかいろいろ、大変ですけども、ギターはこれからもまだまだいいものが

今井  ええ、大丈夫だと思う。

酒井  お話も、これからどんどん尽きなくて広がっていくと思いますので、この後はちょっと、という事で、フェードアウトですが、どうも今日はありがとうございました。

今井  じゃあうまく、差し障りのない程度に編集してください(笑)。


楽しいお話を長時間に渡ってお話して頂いて本当にありがとうございました。この後またまたワインバーで盛り上がって楽しい一時でした。今井さん、本当にお疲れ様でした。